今年ももう3月。春の前の雨はうつくしいなと、濡れる緑を眺めながら、私は今日もあたたかい部屋のなかにいる。
この1年、出かける機会はめっきり減ったし、人の顔はマスクであまり分からなくなった。ビデオ通話で沢山の「はじめまして」をして、仕事も、プライベートも、家から一歩も出ずに完結していく。すこしさびしさを感じつつも、この頃ではすっかり慣れて、異常が日常となっていくことに、変な安心感を覚えはじめていた。
…と書き出しつつ、私はもともとライターという仕事をしているので、生活が大きく変わったわけではない。
いや、ひとつ確かな変化があるとするならば。
私はこの生活になってから、毎日欠かさず 指輪をつけるようになった。
指輪をつける。
それは私にとって、この1年、ささやかで愛おしい日課となっている。
以前はお出かけ用にしていた大ぶりなものも、日常的な小さなものも関係なく、その日の気分で、朝、選ぶ。毎日ほとんどの時間を家の中で、ひとりきりで過ごすので、それは誰にも気付かれないのだけど。ただ自分のために、身につけるのだ。
もともと、指輪がすきだった。アクセサリー全般に目がないけれど、指輪が取り分けすきだった。
なぜ指輪なのかというとその理由は簡単で、日常のなかで、もっとも視界に入るからだ。
朝、マグカップを手に包むとき。配達のお兄さんにサインをするとき。パソコンをあけ、作業をするとき。静かに本のページを捲るとき。指輪は私の一部となって、私の世界にいてくれる。
ふとした瞬間、視界にお気に入りの指輪があるというのは、それだけで気分を穏やかにしてくれるものだ。
さて、今日の私は、ターコイズの指輪。
鮮やかな深い空色。つややかな、思い出のターコイズ。
今回は、実は件の日課のきっかけとなった、この指輪についての話をしようと思う。
この指輪は、3年前、インド・ジャイプールで自分で購入したものだ。
インドへは、ハネムーンだった。海外がはじめての夫が、「カルマが呼んでいる」(?)と行き先を決めたのだ。
インドは、不思議で、賑やかで、うつくしい。風が時間を超えて街を通り抜け、人々を生かしているようだった。
この旅で私がもっとも印象的に感じたのは、インドの人々とジュエリーの関係だ。
インドでは、老若男女問わず多くの人が、皆何かしらのジュエリーを身につけている。まるで肌の一部のように、とても自然に。
私は観光中、ガイドのおじさんも 例外ではないことに気付き、遺跡もそこそこに その理由を尋ねてみた。
すると、トパーズの指輪の彼は、こう返したのだ。
「指輪はお洒落じゃなくて、お守りなんだよ。これは自分の誕生石で、この石が、身を守ってくれているんだ」
それは宗教的な理由もあるだろうが、だから毎日欠かさずつけているんだ、といいながら指輪を見つめる彼の瞳をみて、私は、日本では触れたことのないロマンを感じた。
そうして、その日そのまま立ち寄った宝飾店で、迷わず先の指輪を購入したのだ。(これがルビーやサファイアだったら迷わず購入できなかったと思うので、12月生まれで良かった)
後々振り返ると、この経験は私にとって、ジュエリーを身につける意味を考えるきっかけとなったように思う。
現在、私を含む多くの人にとって、ジュエリーは装飾のためのアイテムにすぎない。しかしそれらは本来、信仰の対象だったり、代々受け継がれる大切なお守りのような、もっと崇高で、尊いものだった。
着飾るためではなく、相手を大切に想う気持ちや、自分を大切に想う気持ちを込めるように、ジュエリーを身につける。
それは人間のもつ特権のような、とてもうつくしい文化だと、私は感じるのだ。
気軽に人に会えなくなって、お洒落をするモチベーションが下がっていたとき、私はこの指輪と、インドの人々のことを思い出し、冒頭の日課をもつことにした。
インドの人々の意味とはちょっとズレているかもしれないけど、私にとって 毎日指輪をつけるという習慣は、『気持ちのお守り』みたいになっている。
誰かのためじゃなく、自分のために身につける。
そんな小さな楽しみをもつようになって、私の気分は 来たる春のように、ちょっと明るく、朗らかだ。
いま、あなたはどんなジュエリーを身につけていますか。
出かけないから、誰にも会わないから、何も身につけてない?
これは、そんなあなたへの、今日の指輪のすヽめ。
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芸術大学卒のフリーランスライター。AJINOMOTO PARK 主催の投稿コンテスト、新しい働き方LAB主催の書きものコンテストなどで、エッセイ入賞。ピアノ講師でもあり、画家の妻としての一面も持つ。ここでは、暮らしのなかで見つけた 美しさ にまつわるエッセイをお届けします。