DIC川村記念美術館は、自然豊かな千葉県・佐倉の地で35年間親しまれてきた私立美術館だ。3月末で休館し、東京都内への移転縮小が発表されていたが、ちょうど今週、六本木の国際文化会館への移転が新たにアナウンスされた。当時から存続を望む声が多く署名活動も活発に行われていたが、いま再び注目が集まっている。
私もまた、署名活動をきっかけにこの美術館の行方を見守っていた一人。先月のある日、休館前の川村記念美術館についに訪れることができた。
DIC川村記念美術館「ロスコ・ルーム」という体験
美術館は、向かう電車で眺めた長閑な車窓からは想像できないくらいに混んでいた。人の間を縫うようにして私が観たのは、コレクション展「DIC川村記念美術館 1990–2025 作品、建築、自然」。多彩なコレクションを有する川村記念美術館ならではの展示で、近・現代美術史のおおよその歴史を辿りつつ、特に20世紀以降の優れた作品群を鑑賞することができる。
最も期待していたのは、やはり「ロスコ・ルーム」だ。世界に3つしかないというロスコの専用展示室を、訪れる多くの人と同じように、私は楽しみにしていた。
1906年生まれのアメリカの抽象表現主義の画家、マーク・ロスコ。彼の「シーグラム壁画」シリーズの7点を、川村記念美術館では専用展示室で観ることができる。
しかし展示室に一歩足を踏み入れて、私の楽しみな気持ちは消滅した。作品が期待を裏切ったのではない。ただ、ワクワクするものとはとても言えなかった。薄暗い部屋の中で、ぼんやりとした灯りに照らされて黙って佇む7枚の絵画は、鑑賞する対象ではなかったのだ。
ロスコはこのシリーズを「絵ではなく場をつくった」と言ったそうだ。その意思を尊重して設えられたその部屋は、狙い通り、鑑賞ではなく体験する場となっている。目で見ているのだが、視界の確かさがない。見ることを何に頼ったらいいのか分からなくて、不安になる。それはトラウマとか悲しみとか、そういう強い記憶を思い出す時にも似ていた。
リバーシブルのぬいぐるみみたいに、くるっと人間をひっくり返せば、こんなふうになるのかもしれない。その赤は、自分自身を見つめざるを得ない、内省の赤だった。私はあまりその場にいられず、ひとまずは部屋を出て、少し呼吸をしてから、もう一度絵と対峙した。
自らの強いエネルギーと付き合っていくこと
この写真は、私が初めてロスコを観た日の一枚だ。軽井沢のセゾン現代美術館で、一枚の赤い絵を鑑賞した。その前かその後か、前を自転車で走っていく夫を撮影したこの一枚が、なんだか好きで、時々見返している。赤いダウンジャケットが、あの日観た絵と重なっているのかもしれない。この赤は、私にとって温かい思い出の赤でもある。
再びの内省で、ふと、そんな記憶がよみがえった。川村記念美術館でのロスコの赤の体験は、強い記憶に結びつくような衝撃があるけれど、強い記憶ってトラウマや悲しみばかりじゃない。赤って、愛や情熱を想起させるカラーでもある。振り子であれば振れ幅いっぱいの、それぞれ強いエネルギーを持つような。
「ロスコ・ルーム」を出てすぐの階段を上がると、そこには唯一、展示作品のない空間が広がっていた。「木漏れ日の部屋」だ。白い壁、大きな窓、揺れる木々の緑の中で、私は視力が回復するような感覚を覚える。たった数歩で、こんなにも世界は変わるのか。「ああ、人は強い感情だけでは生きていけないんだ」 と、その時、私は心から思った。それが愛のようにポジティブな強さだとしても。
川村記念美術館の「ロスコ・ルーム」はその動線もあいまって、私の人生に新たな気づきを与えてくれた。
国際文化会館の新たな「ロスコ・ルーム」へ
国際文化会館では、建築ユニットSANAAが新しい「ロスコ・ルーム」をつくることが決まっている。私はこの変化を、あまり悲しいとは思わない。川村記念美術館を再び訪れても、あの赤色の内省はもう同じ体験にはならないからだ。
芸術を受け取る自分は、移ろいゆくもの。これまでの35年間、一度も作品解説の類を設置してこなかった川村記念美術館も、おそらくはそういう気持ちで、この移転に臨んでいるのではないかと思う。
最後、ミュージアムショップの長蛇の列に並び、私は、フランク・ステラの作品がプリントされたTシャツと、角度で絵が変わるゴッホのひまわりのブックマークを購入した。ロスコのポストカードなどは買わなかった。それは、心の奥にある。ひとつの終わりと始まりを噛み締めながら、私は美術館を後にした。
DIC川村記念美術館は3月末まで
多くの人がそうであるように、この春は私にとっても変化の春となりそうだ。このタイミングで「ロスコ・ルーム」を体験できたことは、とてもよかった。
新しい「ロスコ・ルーム」ができることが発表されたとはいえ、川村記念美術館での「ロスコ・ルーム」の体験は3月末までである。そして、今の自分が体験できるのも、もちろん今だけだ。
同館は館内の写真撮影ができず、この記事もやや色気のない見た目になってしまったかもしれないが、もし訪れることが叶うなら、ぜひご自身で確かめてみてほしい。「ロスコ・ルーム」は、あなただけの赤色の内省を促す。
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芸術大学卒のフリーランスライター。AJINOMOTO PARK 主催の投稿コンテスト、新しい働き方LAB主催の書きものコンテストなどで、エッセイ入賞。ピアノ講師でもあり、画家の妻としての一面も持つ。ここでは、暮らしのなかで見つけた 美しさ にまつわるエッセイをお届けします。