フォトエッセイ

翻訳的意識を持ってみる。二人の「おおきな木」を読んで。【─Shining Moments:40─】

先日訪れたある翻訳作家の方の朗読会をきっかけに、いま私は人生で初めて意識して翻訳文学というものに触れている。翻訳の役割について考える中で私は、私たちの日常は翻訳に彩られているのではないかと思い至った。たぶん私たちは知らず知らずのうちに翻訳を繰り返して生きているのだ。

翻訳と和訳

翻訳ってそもそもどういう意味だろうと広辞苑第七版を引くと「ある言語で表現された文章の内容を他の言語になおすこと」とあった。翻訳文学は、自国語に翻訳された外国文学のことを指す。

恥を忍んで正直なことを言うと、私はこれまで「翻訳」と「和訳」の違いがよく理解できなかった。幼い頃から翻訳文学に触れてはきたが(「ダレン・シャン」や「ハリー・ポッター」に小学生時代は夢中だった!)それは海外の文学を日本語に訳したに過ぎないものだと思っていたのだ。つまり原語で読むことができればそれに越したことはないと思っていたし、だからこそ成長するにつれ、私は日本文学を好んで読むようになった。純粋にその文学を味わうことができるのは、自分が自由に使える言語で書かれているものだけ、と考えていた。

けれども翻訳作家の方の話を聞く中で、翻訳というのはどうやら和訳とは異なるらしい、と気がついた。時に翻訳は、文章の直訳よりも、リズムや余韻を再現することを大切にする。だから翻訳者自身にも作家性が問われるし、コンピュータにはできない仕事なのだ。

そこで思い出したのが、一冊の絵本。私は久しぶりにその鮮やかな緑色の表紙をひらいた。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

二人の「おおきな木」

シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」は私にとって思い出深い絵本だ。

小さい頃私の母は本だけはなんでも買ってくれたのだが、この絵本も書店でねだって買ってもらったものだった。小学校に入りたてくらいだっただろうか。確かいつもの近所の本屋ではなく街の大きな書店で、私はその緑色の絵本に出会った。無駄を削ぎ落としたような表紙と色のない挿絵が、子どもだった私の目には大人っぽく映ったのだと思う。カラフルな絵本ではなくこの絵本を買ってほしいと母に渡した時、ちょっとお姉さんになった気分だった。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

おおきなりんごの木の愛がリズミカルに響きよく綴られたこの物語は、当時衝撃的だった。今でこそ誰かを愛することを覚えたが、子どもだった私にとってそれはまだ注がれるものでしかなかった。愛を与える側の気持ちを想像したことなどなかったのだ。その後年齢を重ねてもこの絵本は側にあり、自分自身の感情の成長を確認するひとつの基準となっている。

大人になって書店を歩いていた時、絵本のコーナーに馴染みのある表紙を見つけた。しかし手に取ってみると、これまで何度も開いてきた絵本と少し違う。翻訳者が変わったのだ。私が読んできたのは本田錦一郎さんの訳。それが絶版になった関係で、新しく出版されたのが村上春樹さん訳だった。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

村上春樹さんの訳をぱらっと捲ってみて、その大人っぽい描写に私はびっくりしてしまった。ひらがなだけで構成されこちらに話しかけるような本田さんの訳とは異なり、村上さんの訳は漢字が混ざりつつ淡々と語っていくような雰囲気。慣れ親しんだ「おおきな木」とは全くの別物だったのだ。

その時の私は思い出の絵本との違いが受け入れられず、村上春樹さん訳の「おおきな木」を反射的に書棚に戻してしまったのだが、今回翻訳文学に興味を持ったことをきっかけに購入することにした。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

たぶん村上春樹さんの訳の方が、原文に近いのだと思う。「And tree was happy…but not really」という文を本田さんは「きは それで うれしかった…だけど それは ほんとかな。」と余韻をもって訳したのに対して、村上さんは「それで 木は しあわせに…なんて なれませんよね。」と控えめだが確信をもって訳している。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

またりんごの木の語り口も、本田さんの訳はどこか中性的で、個人的にはおじいさんともおばあさんとも解釈できると思うのだが、村上さんの訳はお母さんといった雰囲気。原文では一人称が「she」となっているので、この点でも村上さんの訳の方が原文に近いと言えるだろう。

この二冊をいま改めて読み比べると、翻訳という作業の重大性についてよく分かる。そういえばどちらの絵本も「シェル・シルヴァスタイン」の文字に並んで同じ大きさで訳者の名前が木の幹に刻まれている。原文を誰よりもよく理解し、自分が捉えたその魅力を日本語で再構築する作業を、翻訳と呼ぶのだろう。だからこそ両者の訳はこれほど異なる雰囲気ながら、どちらも素晴らしいのだと思う。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

出会った当初は、本田さんの訳に慣れ親しんでいたばかりに少し拒否反応を抱いてしまった村上さんの訳だが、じっくり読んでみると短編小説のような趣があって良い。言葉のリズムが心地よい本田錦一郎さん訳と、文体の美しい村上春樹さんさん訳。どちらの良さもあると思うので、是非読み比べていただきたい。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

翻訳するという意識

冒頭で翻訳という言葉の意味を「ある言語で表現された文章の内容を他の言語になおすこと」と紹介したが、それはつまり「あるかたちで表現されているものを改めて異なるかたちで表現すること」とも言えると思う。

そしてそれは言葉に限らず、さまざまなことに当てはめることができるのではないだろうか。

たとえば情景を改めて言葉にするのも、翻訳と呼べるのかもしれない。また楽譜を読みとり演奏をするのもある種の翻訳だし、人の気持ちを自分なりに汲みとるのも翻訳なのかも。私たちは知らず知らずのうちに、無意識で翻訳的活動を行なっているのだと思う。

だからこそ、いま翻訳的意識をもって毎日を過ごしてみたい。直訳では描かれないところに心を傾けてみる。そこには好き嫌いがあるだろうが、共感してくれる人はきっといるはずだ。

事実をただ並べるのではなく、感情のひとかけらを加えながら、リズムや響きを楽しんで言葉を紡ぐ意識を、何気ない会話の中でも考えてみよう。そうすることで日常はより彩られ、より人間らしい語らいができるように思う。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

6月、我が家の北向の窓は18時前後に最も強い光が差し込む。庭の緑が透ける薄いカーテンがまるで水面のように美しく光を揺らす、そのわずかな時間が私は好きだ。この情景をどう夫に伝えよう。「カーテンの光」だけでは伝えることのできない、この日常的でささやかなしかし美しいワンシーンにも、翻訳的可能性が潜んでいるような気がした。