フォトエッセイ

KYOTOGRAPHIE 2024を通じて考える、子ども時代のベッドルーム。【─Shining Moments:39─】

KYOTOGRAPHIE 2024 を観に行った。今年で12回目の開催となる京都国際写真祭、KYOTOGRAPHIEは、毎年4月から5月にかけて京都市内の13の会場で行われる写真展覧会だ。気になりつつもこれまで一度も訪れたことがなかったのだけど、今日なら行けると朝思い立ち、新幹線で日帰り旅。このエッセイはその帰りの新幹線で書き始めている。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

子どもたちの眠る場所 / Where Children Sleep

日帰りではさすがに全て観ることは叶わず、気になったところだけを回ったが、どの展示もとても良かった。写真へのアプローチが皆違うことが面白かったし、しかし皆同様に写真の可能性を信じているのだな、とも思った。私が行った日は平日にも関わらず人が多く、老若男女問わず、一人で、あるいはグループで、思い思いに展示を楽しんでいた。

私が観た中でもっとも感情を引きずったのは、ジェームス・モリソン(James Mollison)の「子どもたちの眠る場所(Where Children Sleep)」だ。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

京都芸術センターで行われていたこの展覧会は、世界中の子どもたちが眠る場所を、そのそれぞれの子どものポートレートと共に展示するという試み。公式の説明から、このプロジェクトの始まりについて一部抜粋したい。

子どもの権利に関わる仕事を依頼されたモリソンは、自分の幼少期の部屋、ベッドルームについて考えました。子ども時代に寝室がいかに重要であったか、そしてその部屋がいかに自分の持っているものや自分という存在を投影していたか。そこで彼は、今日の子どもたちに影響を及ぼしている複雑な状況や社会問題を考える方法として、さまざまな境遇にある子どもたちの寝室に目を向けることを思いつきました。(KYOTOGRAPHIE公式ウェブサイトより https://www.kyotographie.jp/programs/2024/james-mollison/)

当初『ベッドルーム』と名付けられたこのプロジェクトだが、やがてモリソンは、彼が記憶の中に持つ『ベッドルーム』が、必ずしも全ての子どもに当てはまらないことに気が付く。自分の部屋を持たないどころか、その日眠る場所さえ脅かされている子どもが何百万人といる。当たり前に思われたあの自分だけの王国は、安眠は、とても特権的なものだったのだ。そうしてモリソンは「子どもたちの眠る場所」を通じて、異なる境遇に生まれた子どもたちを紹介し続けている。

今回の展覧会では、28ヵ国35人の子どもたちが紹介されていた。カラフルなパネルに、それぞれの子どものポートレートが一枚と、大きく引き伸ばされたベッドルームの写真。そして彼らの生い立ちや将来の夢、ベッドルームに置かれているものの説明など、短い文章が一緒に展示されている。

子どもたちは皆まっすぐに、それぞれ異なる色の目で、こちらを見ている。その目に見つめられながら私は、自分のベッドルームを思い出していた。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

私のベッドルームとラタンのチェスト

私が初めて自分ひとりの『ベッドルーム』を持ったのは、両親が家を建てた9歳の時だった。大きい窓が2つ付いた、6畳半の部屋。自分で選んだオレンジ色のカーテンと、新しいシングルベッド。そしてラタンのチェストが、その部屋には置かれていた。

そのチェストは両親が新婚時代に買ったもので、引っ越しを機に私の部屋に譲ってもらったのだった。引き出しが9つ付いた大きなチェスト。それは私にとって初めて持つ自分だけの引き出しで、私にとっては自分のベッドがあるということよりもうんと大きな出来事だった。

大好きなぬいぐるみをチェストの上に沢山飾り、引っ越しの時に友人にもらった手紙などをチェストの引き出しに大切に仕舞った。引っ越した日、父がチェストを見ながら「すっかりお姉さんになったね」と言ったことをよく覚えている。一人で眠ることは寂しかったけれど、ベッドの横のチェストを見ながら、もうお姉さんなんだと自分に言い聞かせた。誇らしいような気持ちでもあった。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

寝室に置かれたチェストは、私の成長と共にあった。いつしかぬいぐるみの代わりに鏡やメイク道具が置かれるようになったが、いつの子ども時代も変わらず、その引き出しの中には大切なものが仕舞われ続けた。夢を綴った日記も、両親から隠したいようなものも、全部ぜんぶこの引き出しに入れていたのだ。

私は、自分だけの王国を持っていた子どもだった。何にも脅かされず安心して眠っていたことの証に、今でもラタンのチェストは綺麗な状態のままで私のそばにある。

結婚を機に、私の部屋から、夫婦で住む家へと移されたチェスト。今はリビングに置かれ、用途こそ変わったが、このチェストを見るたびに私は子ども時代を思い出している。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

世界中の子どもたちが、今夜眠る場所

「子どもたちの眠る場所」を後にし、京都の街を歩きながら、写真を撮ったりした。この日は夫から拝借したGRIIだけ持って、身軽に散歩。道に映るきらきらとした影、オレンジ色に照らされる草木など、さまざまなシーンを美しいと感じた。

多分、そんな自分の心もまた、自分だけの寝室で過ごしたあの日々の延長にあるのだと思う。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

「子どもたちの眠る場所」では、子ども一人につき二面、L字状にパネルが用意されていて、場所によっては二人が向き合うような配置になっていた。その中でウクライナの少女とロシアの少年が、向かい合うように展示されていたことに気がついた。おそらく意図してそうしたのだと思う。

写真の中の子どもたちは皆まっすぐにこちらを見ている。無責任な涙が出た。それは、かわいそうだと感じて出た同情の涙でしかなく、そんなふうに泣く自分に腹が立つような気持ちもしたが、きっかけはそれでもいいのかもしれない。一人ひとりの顔と、彼らが眠る場所をじっくりと眺めながら、私は貧困や難民危機、暴力、教育の格差など、これまで真剣に向き合う機会のなかった問題について考え始めた。子どもたちのために何ができるだろう。考えていきたいし、誰かに教えてほしい。こういうことを話し合う場を、設けていきたい。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

KYOTOGRAPHIEの今年のテーマは「SOURCE」だったそうだ。SOURCEとは源。初めであり、始まりであり、すべてのものの起源を意味する。

それが展示の趣旨と合っているのかは分からないが、この「始まり」をテーマとする展示をきっかけに、私はこれまで後回しにしてしまっていた子どもの教育支援の寄付を始めた。月々微々たる額だが何かしたいと思った。

家に帰ってチェストを眺めながら、世界中の子どもたちが今夜眠る場所を思う。願う。子どもたちが安心して、夢を見ないほど熟睡できる夜が、遠くない未来に訪れてほしい。見るのであれば、良い夢を見てほしい。自分の手でできることを、ほんの少しずつでも、考えていきたい。