ふたりきりの旅行
昨年の暮れ、何がきっかけだったか忘れてしまったけれど、母がふと言った。
「ママと二人で旅行したこと一度もないよね」
いやいや、あちこち一緒に行ったじゃん!と言いかけて、あれ、確かにそうかも……?と考えなおす。どの旅先を思い出しても、そこには母以外に、父や弟や祖父母がいた。ふたりきりと言われてみれば、確かにそんな機会なかったかもしれない。
以前エッセイで書いたように昨年の暮れに30歳の節目を迎えた私。自分への贈り物もいいけど今こそ母に何かを贈るべきでは?と考え、私は母に旅行を贈ることにした。土日を挟んで4日間なら休みが取れるということで、それならアジアだねと、ふたりとも訪れたことのない香港に。今回はそんな香港旅行の思い出をお話ししたい。
父の心配ごと
香港に行くことが決まって、まず私は父が嫉妬しないだろうかと心配した。「ふたりで行ってきて大丈夫?パパも行く?」。しかし父はとても嬉しそうにニコニコして、ふたりで行ってきな、と言う。父は母が喜ぶ姿を見るのがいちばん大好きなのだ。ただ「ママを誘ってくれてありがとうね」と言った次の瞬間、ちょっと眉をひそめてこう付け足した。「くれぐれもケンカはしないように」。
私はどちらかというとパパっ子で知られていると思う。実際父とは幼い頃からずっと仲が良い。ただ、私が「パパと洗濯物一緒にしないで!」みたいなことを一切経験していないのにはおそらく理由があって、父は私の思春期にあたる数年間、単身赴任で家を不在にしていた。もちろんそうでなくても父を煙たがったりしなかったと思うけど、理由の一つとしては考えられる。
だから何が言いたいのかというと、私の反抗期は、まっすぐ母に向いていた。今思えば本当にひどいことも言ったし、その頃の母は毎日悲しく怒っていたと思う。父が海の向こうでどれだけ心配していたかが想像できる。そういうわけで、どれだけ時が経ってもケンカしているイメージが強いのだろう。しかし今度の旅行についての父の心配を、私も母も笑い飛ばした。こんなに仲良しなのにケンカするわけないよね!と。
ケンカした。
楽しい盛りのはずの旅行三日目の朝、母のちょっとした言動が気にさわって強く言い返してしまった。もちろん友人知人にそんなことはしないけど、母となれば別である。こうなってしまうと後に引けず、「ごめんね」も耳に届かない。もちろんこちらからも言えない。それでもせっかくの旅行だしと、むすっとしたままホテルを出た。
ワゴン式飲茶で仲直り
その日私たちは、香港に来たからにはと、ワゴン式飲茶の店を訪れた。
昔ながらのワゴンスタイルで飲茶を体験することは、私の香港ウィッシュリストの一つでもあった。私たちが選んだ女人街の近くの店は、旅行客というより現地の人で非常に混雑していて、いかにも本場という感じ。宴会場のようなフロアに中国語と点心の良い匂いが充満している。
これもまた香港スタイルなのだろうか、店は、テーブルが満席でも客をどんどんフロアに入れる。相席当たり前。席に座れなくても自己責任。人種に特性があるとすれば、日本人は香港の人よりは多少控えめではないだろうか。この椅子取りゲームを勝ち抜くにはとても不利である。
朝の出来事があったので会話も弾まず、私がひとりフロアの中心で絶望していると、母が空いているテーブル(しかも二人がけの全体が見渡せる良い席)をサッと見つけ、着席した。ニヤリ、と照れを含んだように笑う母の顔を見て、私も思わず笑ってしまう。
その店では、まわってくるワゴンを止めてセイロの中を見せてもらい、食べたいものをテーブルに出してもらうほかに、配膳カウンターまで自分で料理を取りに行くこともできた。私は、母よりは英語ができ、またこれまで海外へ一人旅をしてきた自負もあったため、料理を取りに行くことを買って出たのだが、目当てのものが見つからない。特に、名物らしいココナッツミルクプリンが食べたかったのだが、配膳のおばさんに確認するも首を横に振られ、手に入れることができなかった。
落ち込んでいると「今度はママが行ってみる」と母は颯爽とテーブルを立ち、その数分後にはなんと、ココナッツミルクプリンを手にして帰ってきた。ニヤリ、と照れを含んだように笑う母。この顔は母の可愛い表情の一つだが、その笑顔を見ていると、今朝のことはどうでもよくなってしまう自分がいた。やはり母には敵わない。
そういえば母は、初めて友人と訪れた海外旅行で国際免許をとって車を運転したらしい。父親の海外単身赴任中には、反抗期の姉と幼い弟を連れて、何度か飛行機で往復した。なんというか、おっとりしている人なのに、強いのだ。私は父に似ていると思って生きてきたが、自分のちょっと大胆な一面は、もしかすると母譲りでもあるのかもしれない。
母のまなざしで見た娘としての私
話はすこし戻って、旅行に出かける日。空港を歩いていたら写ルンですを見つけて、私はなんとなく買ってみた。自分が使うのではなく、母に使ってもらいたいと思ったのだ。母から見た自分の姿を残しておきたい。「ママ、これ使って私のこと撮ってね!」と手渡すと、「んー、使えるかなぁ」と母は渋々受け取った。
日本に帰ってきてから、「全然撮れなかった!」と私のもとに返ってきた写ルンですの残数を見てみると、なんと27枚中15枚もある。母らしいなと笑い、そして現像してみてまた大笑い。私の表情のなんと豊かなこと。ちょっと恥ずかしいけど、ここに対照的な2枚をご紹介したい。
嬉しそうに笑いすぎなくらい笑う私と、不機嫌にむすっとしている私。笑顔の方は何がこんなに楽しかったのか忘れてしまったが、むすっとしているのはケンカした日の一枚である。
この写真を撮ってくれたときの母の様子を思い出す。母は穏やかにニコニコして、不機嫌な私をあやすように、写真を撮ってくれた。これは間違いなく、母にだけ見せる私の表情であり、この表情を撮ろうとしてくれるのもまた、私の母だけなのである。
私はとことん母に甘えているのだよなぁ、と、この旅行を通じて娘としての自分を再確認した。母娘ふたりきりの香港旅行で、私はどこまでも娘だった。30歳になってまで……と、呆れるような、嬉しいような。
ちなみにこれは、例のココナッツミルクプリンを持つ私。
2024年の香港の風景
母との思い出にばかりフォーカスしてしまったが、香港はとても素晴らしい場所だった。旅行しやすく、食べ物が美味しい。残念ながら、車道までつき出すネオン看板は次々に撤去されているらしく、一度は見たいと思っていた混沌とした香港の風景はもうそこにはなかったが、代わりにクリーンな夜景のライトアップを見たり、新しい大型美術館M+を訪れたりと、新しい香港を楽しめたと思う。
また混沌とした香港の風景はなかった、と書いたが、モンスターマンションの名称で知られる複合高層ビル「Yick Cheong Building」は香港でしか見られない景色であり、圧巻だった!市街地を少し外れるが、是非訪れてみてほしい。
他にはフェリーでマカオまで足を伸ばしたりと、大満足な母娘二人旅であった。ケンカしなきゃもっと楽しかったかな?と頭をよぎるけれど、それもまた良い思い出である。良い思い出と思わせてくれる母に感謝である。
ママ、いつもありがとうね。またお金貯めて旅行連れてゆきます。
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芸術大学卒のフリーランスライター。AJINOMOTO PARK 主催の投稿コンテスト、新しい働き方LAB主催の書きものコンテストなどで、エッセイ入賞。ピアノ講師でもあり、画家の妻としての一面も持つ。ここでは、暮らしのなかで見つけた 美しさ にまつわるエッセイをお届けします。