夜の高速道路を走っていた。
友人が運転をしてくれて、私は助手席に座っていた。
普段自分で運転をすることが多いので、窓の外をゆっくりと眺めるのは新鮮だ。
時間は確か23時頃。車は少なく、左右の木々もまた静まり返っている。オレンジ色の街灯が道標のように、ずっと先まで続いていた。
友人と、オレンジ色の街灯って良いよねという話になる。
「カーブが続いていく様子にワクワクする」という意見に私は頷き、オレンジ色のカーブの先へ、視線を移した。
さて、いつか走馬灯というものを見るとしたらおそらく出てくるだろうという光景が、つまり記憶が、私にはいくつかある。
幼い頃、車の後部座席から見たカーオーディオの光。
曇り空の下、赤いダウンで自転車を漕ぐ、夫の後ろ姿。
飼い犬が死ぬ直前の表情。誰かの目の奥に映る自分。などなど。
その中に高速道路のオレンジ色の街灯もあるのだが、そういえば、それと今回の光景とは、どこか違う。
場所とかじゃなく、もっと根本的に、何かが違うのだ。
何だろうと考えて、私の記憶の中のシーンは滲んでいるのだということに、その時気がついた。
たぶん、あれは小学生の頃。ピアノのコンクールに落ちて、その帰り道だった。
私は続いていくオレンジ色のカーブを、泣きながら見ていたのだ。
父親が運転する車の後部座席で、助手席で怒る母親の後ろで、何も言えず、ただじっと眺めたその光景は、不確かで、しかしうつくしいものであった。
涙が出る理由のひとつに(特に悲しい涙の理由に)、「自分を守る」ということがあると思う。
現実世界を視覚的に遮断し、自分だけの世界に一時的に避難させる。瞳だけではなく全身丸ごと膜に覆われるような、そんな感じ。
ちょっと話は逸れるかもしれないけれど、目が悪い人にとって、裸眼の視界もそうだと思う。
私は両目平均0.05のひどい近視で、普段はコンタクトレンズで過ごしているのだが、たまにあえて眼鏡で過ごすことがある。
眼鏡を外すと世界は輪郭を捨て、色だけで構成された、ぼうっとした世界に放り込まれる。
デフォルトで目が良い人には伝わりづらいかもしれないが、目が悪い我々にとって、世界は見えすぎると思うことがたまにある。
もちろん裸眼では生きられないからコンタクトや眼鏡で矯正するのだけど、たまにはありのままの、私だけの世界の中を、ぼうっと過ごすのもありなのかもしれない。
夜の高速道路、助手席で、私はそんなことを思い出していた。
泣きながら見た、あの不確かでうつくしいオレンジ色のカーブを、懐かしく思った。
思えば、もうずっとあんなふうに泣いていない。
一日中コンタクトをつけて、クリアな世界を逞しく生きようと、毎日気を張っている。
ずっと先までよく見える街灯を追いかけながら、自分を労いたいような気持ちになった。
ああ、私、頑張ってきたんだな。
いつもお疲れさん。
今日は早めにコンタクトを外してしまおう。
オレンジ色のカーブの先に何があるのか知ろうとしなくても、きっと大丈夫。
穏やかな気持ちの私を乗せて、車は高速道路を走っていった。
走ってきた道にも、オレンジ色のカーブはずっと続いていた。
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芸術大学卒のフリーランスライター。AJINOMOTO PARK 主催の投稿コンテスト、新しい働き方LAB主催の書きものコンテストなどで、エッセイ入賞。ピアノ講師でもあり、画家の妻としての一面も持つ。ここでは、暮らしのなかで見つけた 美しさ にまつわるエッセイをお届けします。