フォトエッセイ

今日の指輪のすヽめ 【─Shining Moments:01 ─】

今年ももう3月。春の前の雨はうつくしいなと、濡れる緑を眺めながら、私は今日もあたたかい部屋のなかにいる。

この1年、出かける機会はめっきり減ったし、人の顔はマスクであまり分からなくなった。ビデオ通話で沢山の「はじめまして」をして、仕事も、プライベートも、家から一歩も出ずに完結していく。すこしさびしさを感じつつも、この頃ではすっかり慣れて、異常が日常となっていくことに、変な安心感を覚えはじめていた。

…と書き出しつつ、私はもともとライターという仕事をしているので、生活が大きく変わったわけではない。

いや、ひとつ確かな変化があるとするならば。

私はこの生活になってから、毎日欠かさず 指輪をつけるようになった

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

指輪をつける。

それは私にとって、この1年、ささやかで愛おしい日課となっている。

以前はお出かけ用にしていた大ぶりなものも、日常的な小さなものも関係なく、その日の気分で、朝、選ぶ。毎日ほとんどの時間を家の中で、ひとりきりで過ごすので、それは誰にも気付かれないのだけど。ただ自分のために、身につけるのだ。

もともと、指輪がすきだった。アクセサリー全般に目がないけれど、指輪が取り分けすきだった。

なぜ指輪なのかというとその理由は簡単で、日常のなかで、もっとも視界に入るからだ。

朝、マグカップを手に包むとき。配達のお兄さんにサインをするとき。パソコンをあけ、作業をするとき。静かに本のページを捲るとき。指輪は私の一部となって、私の世界にいてくれる。

ふとした瞬間、視界にお気に入りの指輪があるというのは、それだけで気分を穏やかにしてくれるものだ。

 

さて、今日の私は、ターコイズの指輪。

鮮やかな深い空色。つややかな、思い出のターコイズ。

今回は、実は件の日課のきっかけとなった、この指輪についての話をしようと思う。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

この指輪は、3年前、インド・ジャイプールで自分で購入したものだ。

インドへは、ハネムーンだった。海外がはじめての夫が、「カルマが呼んでいる」(?)と行き先を決めたのだ。

インドは、不思議で、賑やかで、うつくしい。風が時間を超えて街を通り抜け、人々を生かしているようだった。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

この旅で私がもっとも印象的に感じたのは、インドの人々とジュエリーの関係だ。

インドでは、老若男女問わず多くの人が、皆何かしらのジュエリーを身につけている。まるで肌の一部のように、とても自然に。

私は観光中、ガイドのおじさんも 例外ではないことに気付き、遺跡もそこそこに その理由を尋ねてみた。

すると、トパーズの指輪の彼は、こう返したのだ。

 

「指輪はお洒落じゃなくて、お守りなんだよ。これは自分の誕生石で、この石が、身を守ってくれているんだ」

 

それは宗教的な理由もあるだろうが、だから毎日欠かさずつけているんだ、といいながら指輪を見つめる彼の瞳をみて、私は、日本では触れたことのないロマンを感じた。

そうして、その日そのまま立ち寄った宝飾店で、迷わず先の指輪を購入したのだ。(これがルビーやサファイアだったら迷わず購入できなかったと思うので、12月生まれで良かった)

 

後々振り返ると、この経験は私にとって、ジュエリーを身につける意味を考えるきっかけとなったように思う。

現在、私を含む多くの人にとって、ジュエリーは装飾のためのアイテムにすぎない。しかしそれらは本来、信仰の対象だったり、代々受け継がれる大切なお守りのような、もっと崇高で、尊いものだった。

着飾るためではなく、相手を大切に想う気持ちや、自分を大切に想う気持ちを込めるように、ジュエリーを身につける。

それは人間のもつ特権のような、とてもうつくしい文化だと、私は感じるのだ。

ジュエリー エッセイ 山田ルーナ

気軽に人に会えなくなって、お洒落をするモチベーションが下がっていたとき、私はこの指輪と、インドの人々のことを思い出し、冒頭の日課をもつことにした。

インドの人々の意味とはちょっとズレているかもしれないけど、私にとって 毎日指輪をつけるという習慣は、『気持ちのお守り』みたいになっている。

 

誰かのためじゃなく、自分のために身につける。

そんな小さな楽しみをもつようになって、私の気分は 来たる春のように、ちょっと明るく、朗らかだ。

 

いま、あなたはどんなジュエリーを身につけていますか。

出かけないから、誰にも会わないから、何も身につけてない?

これは、そんなあなたへの、今日の指輪のすヽめ。